タイトル画像:Indo-European steppe homeland map.svg
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インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)は、世界最大の言語グループ(語族)で、その母語人口は、32億人とも言われています。
世界の人口は、77.5億人(2020年7月17日時点)なので、人類の約41%が、母語として何らかのインド・ヨーロッパ語(印欧語)を話している計算になります。
こうなったのは、印欧語族が世界中に(まずユーラシア大陸全域に、そして近世以降、新大陸などに)拡散した結果ですが、印欧語族は、いつ・どのように、拡がっていったのか、知りたくないですか?
じつは、『ユーラシア帝国の興亡: 世界史四〇〇〇年の震源地』(クリストファー・ベックウィズ著、2017年、筑摩書房)という本に、分かりやすい説明があります。
そこで今回は、「原始インド・ヨーロッパ人(印欧祖語を話していた人たち)が、いつ・どのように、ユーラシア全体に拡散していったのか」について、本書を参考にしつつ、紹介します。
印欧語族の故地と移動時期
「第1章 二輪馬車の戦士たち」の冒頭(p82、p84)で、結論が示されています。
まず、インドヨーロッパ人はやや北のほうから移動してインドヨーロッパ語とは異なる言語を話す人たちが住むカフカスや黒海の地域まで広がった。(p84)
原始インドヨーロッパ人の故地は中央ユーラシアで、具体的には、ウラル山脈南部、北カフカス、そして黒海の間の草原と森林の混在した地域であるとされている。
約四千年前、インドヨーロッパ語を話す人たちはその故地から移動を始めた。彼らは紀元前第二千年期の間にユーラシア大陸のほとんどの地域に広がり、それぞれの土地で土着の人々を支配し、彼らと混ざり合った結果、史料を通して知られるインドヨーロッパ人となった。(p82)
- 故地:やや北のほうから移動して広がった「ウラル山脈南部、北カフカス、そして黒海の間の草原と森林の混在した地域」とは、タイトル画像の中央、濃緑色の部分にほぼ該当します。
ただし、「やや北のほう」が、どこを意味するのかは、ここでは不明です。 - 移動時期:「約四千年前~紀元前第二千年期の間」、つまり、BC.2000年(約4000年前)頃に移動を開始し、BC.1001年(約3000年前)頃には新居住地に定着した、ということになります。期間でいうと、約1000年間ですね。
故地については、「クルガン仮説」における源郷と一致しているようです。
一方、移動開始時期については、クルガン仮説が「紀元前五千年期(BC.5000年~BC.4001年)」を想定しているのに対し、ベックウィズは、少なくとも2000年ほど時代を下った時期を考えています。
著者によると、定説(クルガン仮説)の要点は、
- 印欧祖語からの分岐は約7000~6000年前で、ごくゆっくりとした内部変化によるもの
- 史料確認できる最初の時期(約4000年前)に、分岐した諸言語は既に大きく相違
- だから、「紀元前四千年紀の初め(BC.4000年)を過ぎた時点(6000年前)以降も、印欧祖語が話されていた」とは考えられない
ということなのですが、これは受け入れられないとし、
移動開始は約4000年前で、「故地を離れたとき、異なった部族の間で方言的な違いはまだごくわずかであったと思われる」(p84)が、「新しい地に落ち着いて、インドヨーロッパ語とは異なる言語を話す現地の女性を妻として一世代か二世代のうちにそれぞれの土地のクレオール語を発達させた。それがインドヨーロッパ語の新たな子孫言語となったのである」(p83)、と明言しています。
クレオール語(クレオール言語)とは、「意思疎通ができない異なる言語圏の間で交易を行う際、商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供たちの世代で母語として話されるようになった言語」(Wikipedia)です。
ベックウィズの言う「第一世代」はピジン言語の段階、「第二世代」はクレオール言語ということになります。
また、「ピジン言語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく、複雑な意思疎通が不可能なのに対し、クレオール言語の段階ではそれらの要素が発達・統一され、複雑な意思疎通が可能になる。また、クレオールはピジンと違い、完成された言語」とされています(Wikipedia)。
印欧祖語を話す人々が移動を開始した時期(約4000年前)と、子孫言語が史料確認できる最初の年代(約4000年前)が一致しているのは、「印欧祖語が子孫言語に変わったのは、一世代か二世代、つまり、数十年のうち」であったため、ということになります。
移動は3段階
「本来の中央ユーラシアからの彼らの移動にははっきりとした三つの段階があった」(p82)ようです。
- 第1波:紀元前第三千年期(BC.3000年~BC.2001年)の最後、つまり、約4000年前から
- 第2波:紀元前十七世紀(BC.1700年~BC.1601年)、つまり、約3700~3600年前から
- 第3波:紀元前第二千年期の終わり(BC.1001)or 紀元前第一千年期の初め(BC.1000)、つまり、約3000年前から
下図「印欧語族の拡散|古代ユーラシア・3つの波」は、上記をおおまかに図解したものです。(PhysicalMapOfEurasia1901.jpg をベースに作成)
なお、「印欧語族の拡散ルート想定マップ(紀元前35~25世紀)」という図を、オハイオ州立大学教授(歴史言語学)の Brian D. Joseph 博士が、論文に掲載しています。(The Indo-Europeanization of Europe: An Introduction to the Issues)
2つの図を見比べると、(想定時期は異なるものの)拡散ルートが似たようなかたちになっているのが、分かりますね。
3つのグループ
上記の3つの波は、それぞれが明確なグループを形成していたとされています。
そして、各グループは、それぞれ特有の「方言」を話していました。
つまり、印欧語族の移動は、次のプロセスを経たようです。
- 最初期の印欧語族は、故地においてひとつのまとまった言語を話していた
- その後、音韻パターンが異なる3つの「方言グループ」(A・B・Cと呼ぶ)が形成された
※Bは(故地からの小移動によって? 移動先現地の)非印欧語族からの影響を受けた
※ABCが地理的にどのように配置されていたかは、不明 - グループA→B→Cの順に、故地(周辺)から大きく離脱、ユーラシア各地に移動していった
さて、音韻パターンを考える上で、言語学では「音素」(ひとつひとつの音)に着目します。
音素は、子音と母音に分かれますが、口を閉じて呼気を止めたのち、一気に破裂させて発音する子音を「閉鎖音」(または破裂音)といいます。
印欧祖語の閉鎖音(破裂音)には、次の3種類あります。(Wikipedia より)
- 無声:*p *t *ḱ *k *kʷ
- 有声:(*b) *d *ǵ *g *gʷ
- 有声帯気:*bʰ *dʰ *ǵʰ *gʰ *gʷʰ(=有声有気)
上記の閉鎖音・音素をどのように有しているか、によって、グループA・B・Cの3系列が分かれます。
- グループA:無声の音素のみを有する(元々は、無声・有声を有していた)
アナトリア語派、トカラ語派 → 第1波 - グループB:無声・有声・有声帯気の音素を有する
ゲルマン語派、イタリック語派、ギリシャ語派、インド語派、アルメニア語派 → 第2波 - グループC:無声・有声の音素を有する
ケルト語派、スラヴ語派、バルト語派、アルバニア語派、イラン語派 → 第3波
各グループの移動先
次に、各グループがどのように・どこへ移動していったか、見てみましょう。
第1波・グループA(約4000年前から)
第1波のうち、もっとも遠距離を移動した人びとは、タリム盆地東部、アナトリア高原に到達し、トカラ人、アナトリア人となりました(グループA)。
ベックウィズは、「タリム盆地での発見は原始インドヨーロッパ人と原始中国人の考古学的・歴史学的研究にとって革命的な重要性を持つ」(p110)としています。
彼らが故地を離れたときは、まだ、二輪馬車を持っていなかったようです。
この時期、①そもそも二輪馬車がどこにも存在していなかったか、または、②二輪馬車はあったが印欧語族が(それを戦闘用に)使うことを学ぶ前だったか、のいずれかということです。
やがて、アナトリア人の中からヒッタイトが登場しますが、彼らは、「すでにあった二輪馬車のような乗り物を戦いに使用することを学んだ」(p85)ようです。
印欧祖語から分かれ、「新しく生まれた方言のうち最も影響力の強かったのは原始インド・イラン語であり、その話し手であるインド・イラン人は[中略]インドヨーロッパ語とは異なる言語を持つ人々による進んだバクトリア・マルギアナ文化の地域」(p85)で、クレオール方言(インド・イラン祖語)を発達させました。
「バクトリア・マルギアナ文化の地域」は、アフガニスタン北部・トゥルクメニスタン南部にあったと考えられるようになってきています。
その後、ギリシャ、イタリック、ゲルマン、アルメニアの方言話者と、インド・イラン人の一部が、小移動によって(?)、移動先現地の非印欧語の影響下に入り、原始イラン語とは区別される原始インド的な特徴などを帯び始め、グループBと呼ばれる言語的特徴(有声帯気の子音:*bʰ *dʰ *ǵʰ *gʰ *gʷʰ を有する音韻)を確立。
「グループBが他のインドヨーロッパ語の方言から地理的に分離する頃までに原始インド語と原始イラン語に分岐した。[中略]時期は紀元前1600年ごろであったにちがいない」(p101)といいます。
言語(方言)の分岐と併せて、インド人とイラン人の敵対が始まったようです。
第2波・グループB(約3700~3600年前から)
移住の第2波は、インド、ギリシャ、イタリック、ゲルマン、アルメニアの方言話者(グループB)によるもので、イラン人がインド人を破り、中央ユーラシアの端まで追いやったときに開始。
彼らは「戦闘用二輪馬車を有していて、紀元前第二千年紀の中頃に彼らが周辺の文明地域に移住していったときに文化的そして民族言語的に革命的なインパクトを与えた」(p86)といいます。
起源前第二千年紀半ば(BC.1500年前後)に、古代インド語を話すミタンニ人が上部メソポタミアに、ミュケーナイ語(線文字Bで有名!)を話すギリシャ人がエーゲ海地域に居住していたことが、それぞれ確認できます。
その他の移動は、「イタリック語(紀元前第一千年紀の初めから[BC.1000年頃~])、ゲルマン語(紀元前第一千年紀の終わり[BC.1年頃])、そしてアルメニア語(第一千年紀の初め[AD.1年頃])」(p111)となっています。※[ ]は本サイト管理人
そして第2波は、「イラン人が中央ユーラシアのステップ地帯全域を、そしてゲルマン人が温帯地域の中央ヨーロッパを支配したときに終わった」(p86)といいます。
第3波・グループC(約3000年前から)
第3波は、グループCによるもので、「中央ユーラシアの故地でグループBの人々の住んでいた地域の外側に残っていたケルト、バルト、スラブ、アルバニア」の人々で、「イラン人から離れるように西、北西、そして北の方向に移動」(p87)しました。
「イラン人はインド人を追って近東を越えてレヴァント(地中海東部の沿岸地帯)へ、イランを越えてインドへ、そしておそらく東中央アジアを越えて中国へ移動しただろう」(p87)といいます。
中国方面への展開
印欧語族は中国方面へも展開しています。
東洋史・日本史にとくに関連の深い、3つのテーマをご紹介します。
トカラ人、楼蘭、月氏
まず、現在までに発見されている印欧語族のうち、もっとも古い人々について、です。
「歴史的そして言語的な証拠により、そのインドヨーロッパ系の人々は原始トカラ人である」(p88)とされています。
原始トカラ人は白人種で、最も初期のミイラは紀元前二千年ごろのものであるが、タリム盆地東部のロプ・ノールの近くの古代のクロライナの辺りで非常に多く見つかっている。そこは中国以前の古代文化のあった地域のすぐ西に相当する(p88)。
この言語は長いことそこで話されつづけたので紀元三世紀のクロライナ地域のプラークリット文語に借用語が残った。その地域は、中国人によれば、月氏の故地であり、月氏は明らかにトカラ人と見なされる(p89)。
ギリシャ語資料に現れるトカロイ人と、それぞれ西トカラ語と東トカラ語を話したクチャとトゥルファン(高昌)の人々であることは確実とされている(p89)。
クロライナ Kroraina は、楼蘭(ろうらん / Loulan)のことで、現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリクに相当する場所にあった古代都市・国家です。
日本でも、「シルクロード」の重要拠点として有名ですね。
発掘されたミイラのうち、「楼蘭の美女」は、「1980年、タクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で発掘されたもので」、「炭素14測定の結果、紀元前19世紀(約3,800年前)に埋葬されたもの」とされています(Wikipedia)。
印欧語族の故地から移動の第1波が始まったのは約4000年前で、タリム盆地へも到達、というさきほどの論点とも符合します。
このトカラ人について、Wikipedia の解説を紹介します。
トハラ人(トカラ人、古代ギリシア語: Τόχαροι、英語: Tocharians)は、古代ギリシア・ローマの史料にグレコ・バクトリア王国を滅ぼした遊牧民(トカロイ、Τόχαροι, Tokharoi)として記されている民族。[中略]
または、かつてタリム盆地で話されていたトカラ語の話者を指す。最近の研究ではトカロイとトカラ語話者が同じともされる。
「古代ギリシア・ローマの史料」とは、ストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌』、ユニアヌス・ユスティヌス抄録『地中海世界史』を指します。
「最近の研究ではトカロイとトカラ語話者が同じともされる」とありますが、ベックウィズも同じ立場です。
また、ベックウィズは、「月氏は明らかにトカラ人と見なされる」とも述べています(p89)。
月氏は、古代ユーラシアで存在感を示した人々です。
「月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。漢書西域伝によれば羌に近い文化や言語を持つとある[中略]」(Wikipedia)
紀元前3世紀における月氏の所在地は、下図(China Qin Dynasty.jpg)をご覧ください。
「秦」の北西部、匈奴、羌、烏孫に囲まれた位置に、「月氏」があります。
「紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるように」なりますが、紀元前1世紀における大月氏の所在地は、下図(Western Regions in The 1st century BC (ja).png)で確認できます。(図中央やや左)
- もともとトカラ人は、タリム盆地(上図右にある楕円状のエリア)に居住(ミイラ「楼蘭の美女」は紀元前19世紀=約3,800年前)
- その千数百年後には、ずっと東方の華北平原近くに移動(紀元前3世紀に秦の西隣り)
- その後、匈奴に圧迫されて西に押し戻され、タリム盆地西側のパミール高原を越えたあたりに、「大月氏」として落ち着いた
ということになります。
さて、「月氏=トカラ人」というベックウィズの主張は、「月氏は「トクァル(トカラ)人」の音写」であるという仮説を根拠としています。
古代中国語で「月」は「トクァル(tokwar)」ないし「トグァル(togwar)」であり、バクトリア語における「トクァル(Toχwar), トゥクァル(tuχwar)」に一致すること、「氏」は古代中国語で「ke」と再建され、中世西トカラ語の民族名の接尾辞「~人、~族(ke)」に対応することから、「月氏」は「トクァル人」の音写であるとし、月氏(トカラ人)は古代にタリム盆地~甘粛に住んでいて、トカラ語や、トカロイと結び付けられるという説。(Wikipedia ※出所はベックウィズp156-157, p540-544)
これについて、「月氏」を「月」(つき)、「氏」(し)に分解して詳細に見ていきましょう。
- 「月」の音価は、「初期古代中国語で *nokwet と再建された」(p542)。
- その後、「語頭の *n->*t- と語末の *t->*r- の変化」(p543)により、「月」は古代中国語では「*tokʷar と発音されたかそう読まれていた」(p543)。なお、初期古代中国語 e は、後期古代中国語では a に変化(p544)。
- さらに、「中期中国語で figwar [ᴺgʷar] となり、それは近代官話の yüeh(新官話 yuè)となった」(p543)。※官話:中国語の方言区分の一つで「公用語」の意。
- 「月」は、*tokʷer の段階で「日本祖語を話す倭人(当時、遼西、すなわち、現在の内モンゴルの東南部に住んでいた)の言語に入り、最終的に現代日本語の tsuki「月」になった」(p543)。
- 「氏」は、「古代中国語で通常 *ke と再建され」(p544)、新官話で zhî となる。
- 「結論として、現在「月氏」と言われている名称は *Tokʷarke の音写で、それはタリム盆地の北部と東南部から出た民族」(p545)である。
「月氏」は、語源に忠実に日本語読みするのであれば、「つきし」ということになりますね。
「げっし」というのは、音読みした結果です。
さて、「トカラ」という語は、「吐火羅(とから)」というかたちで、日本史にも登場します。
『日本書記』白雉5年(654)4月条に、吐火羅国の男2人・女2人が舎衛の女1人とともに日向に漂着したとの記述がある。(国立国会図書館HP・レファレンス事例詳細)
[中略]654年の他にも、657年に吐火羅国の男女6人が筑紫に漂着したとの記述が見られる。『古代史研究の世界』および『ペルシア文化渡来考』では、日向漂着の5人と筑紫漂着の6人はもともと同じ一行であったとして、これらの人々のその後について考察している。概要は以下のとおり。
①筑紫に漂着した吐火羅国の男女は、大和朝廷に召された。
②舎衛の女は吐火羅人と結婚して舎衛婦人となり、大和朝廷に召された。
③舎衛の女と結婚した吐火羅人は、妻を残して本国に帰った。
なお、〈吐火羅・舎衛〉に関する『日本書記』の記述は、上記以外にも、659年・660年・676年に見られる。(国立国会図書館HP・レファレンス事例詳細)
『ペルシア文化渡来考』の著者で、京都大学名誉教授でもあった「伊藤義教によれば、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて吐火羅(とから)をペルシア人に比定している」とあります(Wikipedia)。
先ほど掲げた「紀元前1世紀における大月氏の所在地」の図左下に、「安息(パルティア)」とあります。
パルティアとは、ペルシア帝国(アケメネス朝・アルサケス朝・サーサーン朝)のうち、「アルサケス朝」時代(前247年頃-228年頃)の古代イラン王朝を指します。
ちなみに、パルティアとペルシアは、語源が同じようです。
- パルティア Parthia も、ペルシア(ペルシャ)Persia も、古代ペルシア語の Parsa に由来(Etymonline)
- Parsa は、古代ペルシアのパールサ地方 Pârsâ を表し、語源は古代ペルシア語で「騎馬者」を意味する「パールス Pârs」(Wikipedia)。
つまり、「吐火羅(とから)をペルシア人に比定」というのは、「トカラ=パルティア」と考える、ということになります。
トカラ、パルティアは、どちらも、印欧語族ですが、
- トカラ :印欧語族 > トカラ語派 > トカラ語
- パルティア:印欧語族 > インド・イラン語派 > 西イラン語群 > パルティア語
と、語派が異なるため、言語はかなり違っていたはずです。
最後に遺伝子についてです。
タリム盆地の楼蘭(ローラン)やロプノール湖から西に約百キロの砂漠の中に、紀元前2000年頃のものと推定される「小河墓地」(Xiaohe necropolis)があります。
小河墓地で「調査された男性遺体のほぼすべて(12人中11人、つまり、約92%)が、現在西ユーラシアで最も一般的な Y染色体ハプログループ R1a1 に属していることが判明。[中略]R1a1系統であることは、アンドロノヴォ文化に関連するグループ、つまり初期インドヨーロッパ人と発掘遺体の近さを示唆している」。(Wikipedia 英語版)
これは結構、大きなポイントです。
なぜなら、「インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語話者を特徴づける遺伝子はハプログループR1b(Y染色体)およびハプログループ R1a(Y染色体)であるが、R1b はヨーロッパ西部やアナトリア、ウイグル(旧トカラ語分布域)などケントゥム語話者に高頻度で、R1a はバルト・スラブ語派やインド・イラン語派などサテム語話者に高頻度である」からです。(Wikipedia)
下図(Centum Satem map.png)をご覧ください。
赤、ピンクがサテム語(Y-R1a)の範囲、青がケントゥム語(Y-R1b)の範囲です。
トカラ語は、「青=ケントゥム語」となっていますね。
上記 Wikipedia の説明だと、トカラ語話者の遺伝子系統は Y-R1b のはずなのに、タリム盆地・小河墓地での発掘調査の結果は、Y-R1a だったわけです!
この問題については、引き続き、調べてみたいと思います。
殷(商)・周・羌
殷(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)は、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝です。(下図「商(殷)王朝地図」参照)
「殷」という名は、周(殷の次の王朝)が先代の王朝名として「殷」を用いたことによるもので、後期の首都遺構「殷墟」(河南省安陽市)から出土した甲骨文字には、「殷」は見当たらないようです。
殷後期の首都は、出土した甲骨文字では「商」(しょう、拼音: Shāng)と呼ばれたため、殷の別名を「商」といいます。
殷(商)についてのベックウィズの記載を引用します。
商王朝末期の黄河北岸の首都安陽で発見された王家の墓の埋葬品には多くの二輪馬車とそれ用の馬が含まれ、[中略]同時期のカフカスのものにきわめて類似している(p96)。
それらはカフカス山脈の西南のアルメニアのセヴァン湖近くのルチャシェンで見つかり、紀元前二千年紀の半ば頃のものである。[中略]古代の近東における二輪馬車と二輪馬車戦士のうち知られている中で歴史的に最も古いものはルチャシェンのすぐ西のヒッタイト王国とミタンニ王国のものである(p115)。
当時の二輪馬車戦士で他に知られているものはすべてインドヨーロッパ人であり、ほとんどはグループBに属していた(p97)。
二輪馬車戦士が東アジアに現れたのは彼らがギリシャ(ヨーロッパ)、メソポタミア(近東、西南アジア)、インド北西部(南アジア)に現れたのとほぼ同時期である(p98)。
従って、中国に来たのもインドヨーロッパ人であったにちがいない。黄河の谷の文化に侵入者がかなりのインパクトを与えたことを考えると、彼らは言語の面でも強い影響を与えたはずである(p97)。
商の時代の甲骨文字銘文[中略]が明らかに原始インドヨーロッパと関連することは初期古代中国語に関する最近の言語学的研究が示しているところである。インドヨーロッパ語のうちどの語派であるかということはまだ特定されずはっきりとはしていないが、その言語は原始インドヨーロッパ語そのものに近い言語であった可能性がある(p99)。
最初に書かれた中国語である甲骨文字の刻文が同じ頃に書かれはじめたということにも意味がある。[中略]二輪馬車を中国にもたらした、現在まだ確認されていないインドヨーロッパ系の人々が物を書くという発想ももたらした可能性もある(p96)。
ポイントをまとめます。
- 殷(商)王朝の二輪馬車は、アルメニア、ミタンニ、つまり、グループB(約3700~3600年前に、印欧語族の故地から第2波として拡散した人びと)のものと考えられる
- グループBの印欧語族は、殷に対して、言語的に強い影響力と、物を書くという発想をもたらした可能性がある
- その言語は、語派は特定できないが、印欧祖語そのものに近い言語だった可能性もある
初期古代中国語(古代漢語)と原始インドヨーロッパ語(印欧祖語)の関連については、下記の記事をご覧ください。
つづいて、殷の次に興った周(しゅう、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 – 紀元前256年)、その創設者である后稷(こうしょく)、殷(商)の敵であった羌(きょう、拼音: Qiāng)について、次のような記載があります。
周は当時の中国文化地域の西の境界から来た。后稷の母親の姜嫄は名前から見て姜族であった。姜は非中国系の民族で、商の主たる外敵である羌と関係がある、もしくは羌そのものであるという可能性がより高い[中略]。羌は商の時代において熟練した二輪馬車戦士であったことは明らかで、必然的に馬や車輪をよく知っていた(p97)。
初期の羌は[中略]インドヨーロッパ人であり、姜嫄はインドヨーロッパ起源の一族のひとりであったであろう(p98)。
「羌」(新官話 qiâng)は中期中国語の *kʰɨaŋ、古代中国語の *klaŋ で、インドヨーロッパ語の語源を持つかもしれない。トカラ語の単語 klānk- は「二輪馬車で狩りをしに行く」というときの「乗る、馬車で行く」という意味を持つ。従って、「羌」は実際には「二輪馬車の御者」の意味であろう。
「姜」(新官話 jiâng、古代中国語 *klaŋ)は、一般的には「羌」と関係があるか元々「羌」と同一であると考えられている。「羌」という名の氏族は周王朝の元々の母方の氏族だったので、周の時代にはタブー視されていたか、(女偏)の「姜」で書かれたのかもしれない(p535-p536)。
ポイントを整理します。
- (グループBの印欧語族は、殷に対して、言語的に強い影響力をもたらした可能性があるが)周については始祖(姜)そのものが印欧語族で、初期の羌と同一
- その印欧語族の名「姜=羌」は、「二輪馬車の御者」という意味であろう
以上の文脈からすると、
殷に強い言語的影響を与えた印欧語族とは「羌」で、「姜」という名で周王朝を興した
というストーリーが見えてきますね。
そして、「姜=羌」の語源がトカラ語 klānk- に関連づけられていますが、商の時代の甲骨文字銘文が印欧語族のうちどの語派であるかはまだ特定されていないことを鑑みると、「姜=羌=周の始祖」はトカラ人ではなかったと言えそうです。
トカラ語の方は解明が進んでおり、WEBで閲覧できる辞書や参考文献リスト、レッスンコースまであります!
興味のある方は、テキサス大学オースティン校が運営する Tocharian Online をご覧ください。
また、「羌/姜という名称はトカラ語の音写であろうが、[中略]戦闘用二輪馬車に長けていた異邦人を指す包括的な範疇名であった可能性もあるだろう。年代、そして二輪馬車との繋がりはどちらも彼らがインドヨーロッパ人、それもおそらくグループBであったことを示唆するが、それによりイラン人は除外されるだろう」(p142)ということから、トカラ人、イラン人は候補から外れ、残るのは、インド人ということになりそうです。
遺伝子系統について見てみましょう。
羌族(チャン族)は、①旧石器時代後期(約3万年前 – 約1万年前)に東アジアを北方に移動した人々(Y染色体ハプログループD:D1a1a-M15[チベット等]、D3a-P47)と、②新石器時代に南方に移動した人びと(ハプログループO:O3a2c1*-M134[シナ・チベット語族]、O3a2c1a-M117*[チベット・ビルマ語派])の混成のようです。(参考:Wikipedia 英語版)
残念ながら、印欧語族らしきハプログループ(Y-R1a, Y-R1b)ではないようです。
むしろ、注目すべきは、日本人との近親性です(O3a は、日本人男性の約20%が持つ遺伝子)!
周については、「約3000年前の周の時代の古人骨からは、ハプログループQ(Y染色体)が約59%の高頻度で観察された。現代の漢民族に高頻度のハプログループO2(Y染色体)は27%しか見られない。古代中国語の担い手はハプログループQであったことも想定される」ようです。(Wikipedia)
周のハプログループQは、印欧語族のハプログループ R1a, R1b に近いので、初期古代中国語(古代漢語)と原始インドヨーロッパ語(印欧祖語)の関連を示唆するものと考えられます。
スキュタイ
「グループBが他のインドヨーロッパ語の方言から地理的に分離する頃までに原始インド語と原始イラン語に分岐した。[中略]時期は紀元前1600年ごろであったにちがいない」(p101 再掲)ので、イラン人の起源は、紀元前1600年頃ということになります。
その後のイラン人の動静について、ベックウィズは次のように記しています。
中央ユーラシアのイラン人は紀元前7世紀に初めて記録された。それはイラン語を話すメディア人が紀元前7世紀に一時スキュタイに従属したということと、スキュタイが東方から西部草原に移住したという考古学的に確かめられた出来事がギリシャや古代の近東の資料に記録されたときである。(p102)
スキュタイ人は北(もしくは「東」)イラン人である。ヘーロドトス(前484生れ)は実際にスキュティアのオルビアの町(ブグ川河口に位置する)や他の地域を訪れたことがあるが、ヘーロドトスによるとスキュタイ人はスコロトイと自称していたという。彼らをペルシャ人はサカ(Saka)と呼び、アッシリアではイシュクザイ(Iškuzai)ないしアシュクザイ(Aškuzai)と呼んでいた。これらの名称はすべて北イラン語の *Skuδa「射手」のギリシャ語形 Scutha- が基になっている。これは西のギリシャ人と東の中国人の間に住んでいた北イラン系の人々すべてを指す名称である。(p124-p125)
スキュタイの行動範囲については、下図(Scythian cultures.jpg)をご覧ください。
西はギリシャ方面、東はステップを横断し、アルタイ山脈と天山山脈の間を抜けて、モンゴル高原まで分け入っている様子が分かりますね。
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